御影石でできた十字架の前で、理人は目を閉じていた。
ここは、理人の両親が眠る場所である。
理人は目を開き、隣で同じように目を閉じている景の姿を見つめた。分厚い雲の切れ目から降り注ぐ陽光が、景の蜂蜜色の髪を鮮やかにきらめかせる。黒いハイネックセーターに濃灰色のスラックスを身につけ、一心に理人の両親の冥福を祈る景の姿は、さながら黒衣の天使のようだった。
「……景、ありがとう」
「え」
景が祈りの姿勢を解くと、理人は穏やかな声でそう言った。景は芝の上に膝をついたまま、澄んだ瞳で理人を見つめ返している。
「こんなとこまで、一緒に来てくれて」
「何言ってんだよ、当たり前だろ」
事も無げに景はそう言って、にっこりと微笑んだ。
ここは、理人の住む街からは、車で約三時間という距離がある。気軽に向かえる距離でもなかったため、本当は一人で来るつもりだった。だが、景は一緒に行くと言って聞かなかった。
武知が何度も送迎を申し出てくれたのだが、景はそれを断った。「行くのなら、二人きりで」という理人の想いを汲み取ってくれたらしい。理人は実に数年ぶりの運転であるが、景は仕事でもし
ばしば運転していたらしい。危なげなく車を走らせる景の横顔に、理人はしばしば見惚れてしまったものである。
つい数日前は、高科の墓前で、一連の事件についての報告をした。
ひととき、高科の気持ちを疑ったこともあった。理人に近づいた理由を勘ぐったりしたこともあった。
だが高科は、理人の見ていた通りの男であったのだ。ただ理人を愛し、そばにいて守ってくれた ――
彼の死後、ようやく全ての真実が明らかになり、これらの事件を通じて理人は初めて、高科の全てを知ったのだ。
これまで、どことなく高科に感じていた頑なさを、今になって感じることがなくなるなんて。
皮肉なものである。
理人は気を取り直すように息をつき、もう一度墓石を見つめた。
「景を紹介できて、良かったよ」
「ふふ、俺も。理人のご両親に挨拶ができて、良かった」
「うん」
ひとつ微笑み合ったあと、景は先に立ち上がった。そして理人に手を差し伸べ、ぐっと力強く立ち上がらせる。
カサブランカの花束が供えられた墓標を見下ろし、理人は一言、「また、来るから」と告げた。
分厚い雲の隙間に、頼りなく消えかけて行く天使の梯子。
薄れゆく光の粒の中、理人はかすかに、両親の笑顔を見たような気がした。
「うわ、降って来たな」
車に乗り込んだ途端、ざぁぁ……と大粒の雨が降り出した。低く立ち込める雲が太陽を隠し、
ぐっと気温が下がった気がする。
季節は初冬。昼間といえど、吹きつける風は冷たくなりつつある時期である。理人が無言で手を擦り合わせていると、横から伸びてきた景の手で、指先を包み込まれた。
「寒い」
「ああ……うん、ちょっとね」
「もう宿へ行こう。雪になるかもしれないからな」
「うん…………って、宿 え いつの間に予約したんだよ」
帰りは自分が運転する気満々で、理人は日帰りのつもりでいた。だが景は、ちゃっかり宿泊場所を確保していたらしい。
景はいたずらっぽく微笑んで、ステアリングに右手をかける。
「こっちにも、ロスメルタ系列の宿があるんだ。そこはまだオープンしたてで、兄さんが是非感想を聞きたいと言っていて」
「……令さんが」
「そう。……ちょっと行ってみない 理人の手、冷たいよ。早く暖かいところへ行こう」
「う、うん……いいけど」
予定外の出来事だが、景と一泊旅行というシチュエーションはなかなかどうして甘美である。一緒に暮らしているとはいえ、普段は互いに仕事があるし、帰宅時間だってバラバラだ。このひとつき、理人がほぼほぼ完全に職場復帰していることもあり、のんびり二人で過ごす時間が取れていないのもまた事実だ。
――なんか、照れる……。どうしよ、俺、顔にやけてないかな……。
沈黙し、なんとなくそわそわし始めている理人に対して、景はばつが悪そうな顔をした。
そして一つため息をつくと、景は申し訳なさそうな声でこう言った。
「……ごめん、そんな気分じゃないよね」
「え、えっ 何が」
「ご両親の墓参りの後で……とか。そんなの、不謹慎だった。ごめん」
「いっ、いやいやいや そんなことないって」
「無理しなくてもいいんだ。俺、無理やりついて来た上に浮かれたこと言って……」
「そんなことないって 俺、やっと墓参りに来れて、ふたりに景のこと紹介できて、嬉しかったんだよ」
「……ほんと」
「ほんとだよ 俺が黙り込んでたのは…………あの、なんていうか……照れ臭いっていうか」
「照れ臭い なんで」
「何でって……えーと。だって、初めてじゃん。お前とさ、二人で遠出して、泊まりで、とか……」
「……」
「つまりその……ドキドキしてんだよ」
そんなことをつっかえつっかえ話していると、余計に恥ずかしくなってくる。顔を赤くしている理人とは対照的に、景の顔は普段と変わらず涼しげなままだからだ。自分だけが期待して、勝手に盛り上がっているのかと思うと、なんだかいたたまれないような気分になってきた。
「……な、何とか言えよ」
「……可愛い」
「え」
「理人がそんなこと言ってくれるなんて……すごい、何だこれ、すごく嬉しい」
そう言うや否や、景はハンドルに顔を埋めてしまった。しかも微かに震えているものだから、今度は理人が焦ってしまう。
「景 おい、どうしたんだよ」
「ううん……ごめん、嬉しすぎて。だって理人、仕事に復帰してからずっと、なんか研究者モードっ
ていうかなんていうか、全然俺に甘えてくれなかったから」
「えっ……そ、そうだっけ」
「そうだよ。だからちょっと、寂しかったんだ。オメガの俺じゃ、もう物足りなくなっちゃったのかなって思ったりとかして……」
「ええええ お前、そんなこと考えたりするの」
「するよ」
と、ちょっとふてくされたような顔をする景の横顔に、理人は思わずキュンとした。理人はぐっと身体を伸ばし、ばたばたと雨粒が打ち付けるフロントガラスを見つめている景の頬に、リップ音をさせてキスをした。
不意打ちのキスに、景が軽く目を見張る。その表情も可愛くて、理人は思わず笑ってしまった。
「……ごめんな、景」
「いや、謝らないでよ。……何言ってんだろ俺、恥ずかしい……」
「ううん、そういうの言ってくれると嬉しい。確かに俺、余裕なかった。仕事休みまくってて遅れてた分、しっかり研究で成果出さなきゃって焦ってるところもあったからさ」
「う、うん、分かってるんだ。なのに俺、女々しいことを……」
「いいって」
理人は景の両頬に手を添えて、自分の方を向かせた。そして車の中で、景の唇を軽く食む。柔らかなそれに唇を重ね、下唇を吸い、そっと離れようとした理人の顎を、ぐっと景の指が包み込んだ。
顎を捉えられたかと思うと、歯列を割って、するりと景の舌が忍んできた。
目を閉じて、ゆったりと舌を絡ませていると、だんだん頭の芯がぽうっと痺れて熱くなる。
「……ん……けい……」
「ゆっくりキスするのも……久しぶりな気がするな」
「うん……。ねぇ、もっとしよ……」
「……その意見には同意だけど、ここじゃダメだ」
そういえば、ここは墓所の駐車場だ。
ハッと我に返ったとき、ばしゃんとアスファルトの上に溜まった雨水を蹴って、他の車が入って来る音が聞こえて来た。
理人はサッと景から身体を離し、少し乱れた前髪を直す。
「……え、ええと……。腹減ったし、まずは飯でも食いに行こっか」
わざとらしくキビキビとした口調でそんなことを言う理人に、景がくすくすと笑っている。エンジンをスタートさせて車を発進させながら、景は軽い口調でこう言った。
「うん、そうだね。食事は宿でもできるけど、すぐ行く」
「……行く」
理人の素直な返事に、景は「了解」と頷いた。